1920年の琿春事件およびその報復的軍事行動としての「間島出兵」について、それぞれ発生した民間人被害者に対する「救恤」のあり方について考えた。琿春事件は日本政府が救恤金を出そうとせず、中国政府からの賠償を獲得して配分することにこだわり、1935年まで救済が遅れてしまった。また、琿春事件の報復的な行動として実行された間島出兵は、朝鮮人・中国人の被害者が多数出た。日本政府はなかなか個別の救恤を認めたがらなかったが、最終的に1921年初頭、朝鮮人住民は日本臣民であるから、と救恤金を支出した。ただ、これは個人に対してではなく、被害者の出た村に対する救恤金であった。